音楽について語るときに村上春樹の語ることば【シューベルトのピアノソナタ②】

言説

今回は、以前こちらの記事で書いたことの続きです。

以前の記事では、シューベルトの作品自体の村上春樹の言葉を紹介しました。

今回は、シューベルト「ピアノソナタ 第17番」二長調 D850 のいろいろなピアニストの演奏について述べたものです。

演奏について語るときに村上春樹の語ることば

前回と同じで、「意味がなければスイングはない」(文春文庫)からの引用です。

演奏についての記述もキレキレです。

レイフ・オヴェ・アンスネスの演奏に対して

(前略)まるでグリーグの音楽を聴いているような、健全な「むせかえり」の感覚がある。深い森の空気を胸に吸い込んだときの、清新でクリーンな植物性の香りが、しっぽの先まで満ちているのだ。(79〜80頁)

健全な「むせかえり」?

「むせかえる(噎返)」という言葉を、『日本国語大辞典』で調べると、

  • ①ひどく息苦しくなる。続けざまに激しくせきこむ。
  • ②息をつまらせて激しく泣く。しゃくりあげて泣く。むせび泣く。

どこに健全さがありますかね?笑

健全に息苦しくなるとか、健全に激しく泣くとか、聞いたことも経験したこともありません。

ですがこれが村上春樹の言葉の力です。
村上春樹の、というよりもある意味で、「言葉の力」かもしれません。

矛盾している言葉をあえて結びつける。

ただ、言っていることはわかります。

深い森に入って、爽やかな空気を吸い込んでむせ返った時の、気持ちよさ。

そう思って演奏を聴いてみると、わかるような気もしてしまいます。

こちらがその健全なむせかえりの、アンスネスによるシューベルト「ピアノソナタ 第17番」二長調 D850の第2楽章です。

シフの演奏に対して

シフの演奏に対しては、「節度を保った、好感の持てる演奏」と言いながらも、「『言いたいこと』が稀薄」とけっこう辛口です。

そのロマンティシズムは決して、情感に流れるためのロマンティシズムではない。楽譜は綿密に検証され、情感は統御され、ダイナミズムは洗い直され、すべては内省というフィルターをくぐり抜けることになる。それは言うなれば、一度解体され、洗い直され、再構築されたロマンティシズムである。(81頁)

確かに若い頃のシフはそうかもしれません。
今から30年近く前、1992年の録音です。

でも今のシフはさらに一回りして、自然だと思います。
村上春樹の言葉を借りれば、「一度解体され、洗い直され、再構築された」上で、さらに解体された演奏というような。

シフの演奏です。

ギレリスの演奏に対して

さらに辛口なのは、ギレリスに対してです。

「うーん」とうなりながら最後まで飽きることなく、その見事な重戦車的ピアニズムの展開に聞きほれてしまう。(89頁)

「重戦車的」とはなかなかの皮肉。笑

さらに追い討ちをかけるようにこう言います。

ただしシューベルトのニ長調ソナタがそもそも持っていた世界のたたずまいのようなものは、どこを探しても見当たらない。シューベルトが墓の下で寝返りを打っている音が聞こえてくる。(89頁)

作曲家が「墓の下で寝返りを打っている音」を聞いてみたいくらいです。

こちらがギレリスの演奏。

まとめ

演奏について語るときに村上春樹の語ることばは、アイロニーに満ちていています。
数々のレコードや生演奏を聴いている人なので、耳も言葉もキレが良いです。

ですがその根本には、やはり音楽への愛と、演奏家への尊敬を感じないでしょうか。

前回の記事はこちら。