没頭すること
essay. vol.1
このようなツイートをした。
没頭しすぎた狭い視野からしか見えない景色もある。 和声を集中して勉強してた高2〜3くらいの頃って、最初に分析して構造をわかってからでないと弾くのが気持ち悪いという感覚だった。 一般的に視野が狭いことは良くないとされますが、これくらい徹底したからこそ見えた世界があったと思う。
なるべく多面的に、広い視野で物事をみるべきと人は説く。
狩猟時代には、何かに没頭してしまっていたら、後ろから敵にやられてしまうかもしれない。
そんなことから、人間は意識が散漫になるようにできている。
集中できない時の言い訳には、これを使っている。
現代社会では、何かに集中していて、後ろから敵に攻撃されるということはほんとんど起こり得ない。
過去を振り返ってみても、結局いつも何かに没頭していた。
ある時期は、黒澤映画に、ある時はブラームスに。
そんな風に、何かに没頭しすぎるくらい過剰に没頭して、時間が経つとある程度は冷める。
そしてまた違う何かに没頭していく。
それを繰り返すのだ。
そうやって、気づいたら平均化されて、並くらいの興味になってしまう。
でもそれで良い。
その没頭して、視野が極端に狭くなっている時期にしか見えない景色というのは確実に存在する。
最初の例もそうだ。
和声が全てだと思い込んでいた時期があって、それさえわかっていれば音楽の全てがわかったことと同義だと思い込んでいた時期があった。
もちろん当時そんなことを、大人に言ったら、そんなことないよ、もっと色々な見方があるよ、と言われたかもしれない。
でも青年期のある一時期には、そうやってとことんハマって、その一方面でしか物事を見れない時期というのも必要だ。
極端に、振り切れて。
そういう時期を経て、人は多面的に物事を見れるようになれる。
没頭を繰り返すことで、自分が出来上がっていく。