原民喜のレクイエム(「鎮魂歌」)【明るく静かに澄んで懐しい文体と調律師の理想の音】

思考・日常(音楽)

今日は8月6日です。75年前の今日、広島に原爆が落とされました。

3年前の今日

広島にオペラの公演で行って、 その次の日に資料館と平和記念公園に行きました。

そこで出会ったのが、原民喜です。
名前は知っていたものの、読んだことがありませんでした。

帰りの飛行機で、原民喜の文体にすっかり虜になります。

「鎮魂歌」

原民喜は、広島での被爆体験を自らの作品に残しました。
短編集『夏の花』(1949年)に、「鎮魂歌」という短編があります。

この作品では、「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ」という言葉が繰り返されます。

作家の平野啓一郎が「鎮魂歌」について以下のようにツイートしていました。

愛する妻の病死=「一つの嘆き」
大量殺戮=「無数の嘆き」

この作品の本質を述べていると思いました。

多くの死者たちの嘆きが、語り手の「僕」に響きわたります。
そして「僕」を介して、死者たちの嘆きが歌われるのです。

最後におかれた未来の世界への祝福が、とりわけ胸に響きます。

僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失った僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ。明日、太陽は再びのぼり花々は地に咲きあふれ、明日、小鳥たちは晴れやかに囀るだろう。地よ、地よ、つねに美しく感動に満ちあふれよ。明日、僕は感動をもってそこを通りすぎるだろう。

この2年後に、原民喜は自殺します。

原民喜の理想の文体と『羊と鋼の森』

「沙漠の花」というエッセイでは、原民喜の理想の文体について述べられています。

明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体……私はこんな文体に憧れてゐる。だが結局、文体はそれをつくりだす心の反映でしかないのだらう。

宮下奈都『羊と鋼の森』

数年前に話題になった、ピアノの調律師の物語です。

この小説の中で、ベテラン調律師の板取が、どんな音が理想なのかと主人公に聞かれて、原民喜の上の言葉を引用します。

それが理想の音だと述べるのです。

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」
(中略)
「原民喜が、こんな文体に憧れている、と書いているのですが、しびれました。私の理想とする音をそのまま表してくれていると感じました」(『羊と鋼の森』)

反するものを掛け合わせたいというのは、芸術家の欲求なのでしょうか。
私もこんな文体や音を夢想します。

しかし、原民喜のこの言葉の本質は、上で引用した「だが結局、文体はそれをつくりだす心の反映でしかないのだらう」というところにあるような気がしています。

結局、文体は心の反映。言い換えれば、音は心の反映。

マイルス・デイヴィスがビル・エヴァンスについて述べた言葉

私の好きな言葉があります。
マイルス・デイヴィスがビル・エヴァンスについて述べた言葉です。

ビル・エヴァンスの演奏には、いかにもピアノという感じの静かな炎のようなものがあった。

炎というのは、一般的に「炎のような情熱」のように、強いものをさらに強調する時に使われることが多いですよね。

しかし、デイヴィスは「静かな」という形容詞を組み合わせて「静かな炎」と表現したのです。

ビル・エヴァンスの演奏をうまく表現していると思います。

まとめ

原民喜の話から、ビル・エヴァンスの話にまで行ってしまいました。

今宵は原民喜の文章に浸ってみてはいかがでしょうか。

青空文庫で全て読むことができます。