シューマン:クライスレリアーナ 作品16 楽曲解説
この作品は、あらゆる点でシューマンのピアノ音楽の最高傑作の一つとされており、作曲の5年後にシューマン自身も「最上」と評価しているほどである。1838年に作曲され、同年に出版されている(改訂版は1850年に出版)。
文学青年だったシューマンが敬愛していた作家の1人、E. T. A. ホフマン(1776-1822)は音楽に造詣が深く、音楽評論を書くときの筆名はクライスラーだった。E. T. A. ホフマンの『ネコのムル君の人生観』に登場する、楽長クライスラーが《クライスレリアーナ》の由来となっている(『カロ風幻想小品集』の中にも同名の短編がある)。この小説は、人の言葉を理解し、読み書きができる猫のムル君と、架空の音楽家クライスラーの伝記が二重に交差する内容で、夏目漱石の名作にも影響を与えた。ここでのクライスラーは一風変わった人で、叶わぬ恋もしている。この小説に共感したのは、クララとの結婚がうまくいかないシューマン自身を重ねたからかもしれない。
クララへの手紙(1838年4月14日付)では、この曲集について「この曲の中であなた自身とあなたの楽想が主役を演じている。」と書いている。表向きにはショパンに捧げられたが、実質的にはクララに捧げられたと言って良いであろう。1838年7月下旬、自分のもとに楽譜が届いたクララは、「どの曲もすばらしく、とてもユーモラスかと思えば神秘的です。」と称えた。
音楽的な内容としては、8つの曲からなる一つの作品で、全体が有機的に作用している。調性の特徴として、基本的には変ロ長調とト短調が交代する構成となっている。ト短調ではフロレスタン的な激しい感情、変ロ長調ではオイゼビウス的な内省的な感情が描かれている。
第1曲 ニ短調 2/4拍子 Äußerst bewegt
全体の中では異色のニ短調であり、曲集の序奏としての役割がある。3連符が1つの群をなす音形で、これは第3曲と第8曲にも共通する。シンコペーションや、裏拍のアクセントによって、極めて動的な音の渦となっている。「A – B♭」の動機は、この作品全体に共通する要素である「2度」で構成されており、その後も左手の旋律として出てくる。
第2曲 変ロ長調 3/4拍子 Sehr innig und nicht zu rasch
6つの部分(ABACDAの小ロンド形式とも捉えられる)からなる大きな楽曲。A部分では、愛のデュエットの音度でもある3度や6度の重なりが多用されている。B部分にあたる「間奏曲Ⅰ」では、ジーグ風の2/4拍子へと音楽が変化する。旋律の「F – D – C – B♭」の音形は、冒頭の旋律を逆行させたものである。再び冒頭の音楽に戻り、そのあとはC部分にあたる「間奏曲Ⅱ」。こちらでは左手のG音が印象的に響く。「E♭- D – C」の音列は第7曲でも主題となる。その後の「ゆっくりと Langsamer」したD部分は半音階的下行を多用し、内省的である。最後に再び冒頭の音楽に戻る。
第3曲 ト短調 2/4拍子 Sehr aufgeregt
「非常に興奮して」と記された楽曲。この主題が5曲と8曲に変奏されて用いられる。3群の音構造、「A – B♭」を軸とした音構成は、第1曲と関連としている。E. T. A. ホフマンの描くクライスラーは、音楽に我を忘れるような激情的な人物であった。そのような狂人のクライスラーのキャラクターが描写されているともいえよう。こちらでも低音のG音が印象的に響く。コーダでは、両手で主題のリズムが奏され、まさに狂乱とも言えるクライマックスを迎える。
第4曲 変ロ長調 4/4拍子 Sehr langsam
前後の激情的な音楽と対照的で、全体の中でも間奏曲のような役割を果たしている。やはり「A – B♭」で始まる。装飾音までもが低音で重奏的に奏でられる。これも愛のデュエットであろうか。中間部は流れるような楽想で、「D – E♭」の2度の動機で始まる。最後に、最初の楽想が回想される。
第5曲 ト短調 3/4拍子 Sehr lebhaft
低音のG音から、「非常に生き生きと」した楽曲が引き出されている。第3曲の変奏でもある。中間部は和音とユニゾンで構成された、風変わりなキャラクターを持つ部分。付点のリズムが特徴的で、シューマンが得意とするヘミオラのリズムで高音まで駆け巡る。
第6曲 変ロ長調 12/8拍子 Sehr langsam
8分の12拍子の優雅なシチリアーノで始まり、途中からフランス風序曲の様式も挿入される。バッハやヘンデルなどのバロック様式をシューマンが研究した影響が見られる。
第7曲 ハ短調 2/4拍子 Sehr rasch
この曲集で唯一のハ短調の楽曲である。和音が変化してもベースにはやはりG音が保持されることで、ト短調から遠くは離れていない印象を与える。「E♭ – D – C」の下行旋律は第2曲に共通している。ゼクエンツの多用やフガートのような部分もあり、この曲でもバロック様式の要素を感じる。最後は変ホ長調のコラールで閉じる。
第8曲 ト短調 6/8拍子 Schnell und spielend
「遊びに満ちてspielend」と記されている通り、ギャロップのリズムでユーモアに満ちている。やはりベースにはG音があり、付点のリズムは第5曲からきている。クララ宛の手紙では、曲の最後は聴衆のために力強い和音で終わることも考えていたことがわかるが、pppで消えるように作品を閉じることになった。小説の主人公クライスラーが、最後に姿を消してしまうように。