外部の環境、そしてデッドライン。

思考・日常

最近、自分は意外と「形から入る」ことがあると気づいた。

何か文章を書くにしても、どのアプリで書くかということにこだわる。
下の記事でも書いたように、相当なアプリを使った。


最近ハマっているのは、PenCakeというアプリ。

Simple is Bestといった具合で、真っ白のノートに書いているようだ。
フォントも良い。特に、スマホで書くときの美しさに惚れている。

パソコンではstoneというアプリがあってPenCakeに近いのだが、スマホでは使えないのが難点。そういうわけで、スマホでstoneのようなものはないかと探していたら、PenCakeに出会ったというわけだ。

そうやって寄り道をするので、いざ書くまでに時間がかかる。

でもこれは必要な「儀式」で、そうやって周りから整えて、形から入っているのである。

書きたいことは、書いているうちに変わっていく。

この記事も、元は「やるから考える 考えたからやるのではない」というタイトルで書こうとしていたのに、いざアプリを開いたら、「形から入る」ということを書いていた。

そういうふうに、考えていることは書きながら変わっていく。

ベートーヴェンはそういうタイプだったのではないかと思う。書きながら、音楽を膨らませていった。

それと対照的なのはモーツァルトで、書く前に頭の中で音楽ができていた。
こういうタイプは、むしろ書く時間が無駄なくらいだ。

そんなわけで、実は今は学生。今年中に博士論文を提出しなければならない。
ここ最近は執筆が進んでいなかったのだが、進まなかった理由は、やらなかったからだ。

なんとも当たり前だが、やらないから進まない。
やれたら進むのだ。

とりあえず「やり出す」ことが大切。

そんなことはやれない時にもわかってるのだが、やれないものは仕方ない。

強制的にゼミが迫ってくると、やりだす。
外部の環境が必要だ。

それでいざやってみたら、筆が進む、進む。
書けないのではなく、書いていなかっただけなのだ。

行動したから思考が伴う。
思考したから行動できる、ではない。

強烈なのは外部の環境、装置。
そして区切るということ。

こんなツイートをした。

大学等のレッスンが週1回(時に2回)あるというのは理にかなっている。「本番」という1つの長期的なデッドラインだけではサボってしまうから。
なければ短期的なデッドラインを自ら設けるしかないが、難しい。
その前にレッスンや試演会といった短期的なデッドラインがあることで練習も捗るのです。
短期的なデッドラインを自ら設けるのは難しいので、人を巻き込むのが手っ取り早い。
でもそんなこと毎回できないので、
・タスクを分解(区切る)
・その区分のデッドライン(締め切り)を設ける
要は、「遠い未来」ではなく、「近い未来」を設定するということです。

人生は死というデッドラインに向かっている。
死までに一体いくつのデッドライン(締め切り)があるのだろう。