日記でプッチーニ《ラ・ボエーム》を評した画家クレー

言説

画家として有名なパウル・クレー Paul Klee(1879-1940)
独特な作風で、20世紀に活躍しました。

クレーの代表作といえばこちら。

「パルナッソスへ」(ベルン美術館蔵)。


日本パウル・クレー協会のサイトの説明によると、

(前略)点描画法に取り組んでいるが、この作品がその頂点を示している。音楽の構造ポリフォニーを絵画に写し、実際作品は何層もの色面を重ねて描かれ、重奏の視覚化が試みられた。


ポリフォニー、重奏などの音楽用語が目立ちます。

クレーと音楽

それもそのはず。クレーは音楽一家に生まれた上に、奥さんもピアニストでした。

  • 父:ドイツ人音楽教師
  • 母:スイス人声楽家
  • 妻:ドイツ人ピアニスト


クレー自身も、画家になる前はプロのヴァイオリニストとしても活動していたのです。
絵に専念してからも、弦楽四重奏を楽しむなど、生涯にわたってヴァイオリンを弾き続けました。

  • 7歳(1887年)ヴァイオリンを習い始める
  • 10歳(1890年)ベルン市管弦楽団の非常勤団員
  • 20歳(1900年)絵の勉強のためベルンから音楽都市ミュンヘンへ
  • 28歳(1906年)結婚した妻はピアニスト、リリー・シュトゥンプフ

クレーの日記

クレーは、自己省察のために日記を書いていました。

18歳の頃から日記を書き始め、38歳まで書きつづけ、その後は途絶えてしまいます。
日記には、美術のことはもちろん、演劇や音楽、日常の思考などが記録されています。

日本語訳で読めますが、わりと高価です。

音楽に関する日記

音楽に関する記述はあまりに多いので、オペラ関係で一つ紹介します。

プッチーニの《ラ・ボエーム》について書かれた1902年1月16日の日記です。

プッチーニの『ラ・ボエーム』。素晴らしい公演。あらゆる要素が等しく絡み合っている作品。ミュルジェールの原作ではあんなに楽しいディテールだが、ここでは筋がきの大きな流れのために犠牲になっている。人物たちの群像だけでも収穫だ。貧困と生きる喜びとの目くるめく転換のなかで、離れ難く結束している人びと。こんな原始的で唐突な話が、もし演劇だったら全然効果がないだろう。しかし音楽がこの物語に深々とした人間味を与え、そのためこの人物たちとその運命は高貴なものとなり、深い慈愛をもって受け入れられる。宿命を語る音楽の言葉がそうさせるのだ。

クレーは原作もしっかり読んでいます(最近日本語訳も出ました!)。

オペラになるとどうしても、原作の細かいところまでは扱えないことが多いのですが、それを「音楽の言葉」「物語に深々とした人間味」を与えていると言っています。

それからこのように続きます。

特に死のシーンで、音楽は稀有な美しさに達する。楽器の主役はヴァイオリンだと思う。パトスと酒神讃歌に浸りきって飽くことを知らない。その間にも、強烈なバスが暗い運命の力でアクセントを刻みつける。

そう。まさに楽譜でいうとこの場面。

クレーのいう、「強烈なバスが暗い運命の力でアクセントを刻みつける」というのは、コントラバスとチェロ1人ずつのピッチカートです。

ヴァイオリンの旋律はだんだん消えていき、ピッチカートの鼓動も止まり、ミミは息途絶えます。

まとめ

クレーは音楽評論家並みの考察を日記で書いていました。

音楽についての記述は、このほかにもたくさん残っていますが、最後におまけで、チェロの名手パブロ・カザルスと演奏した時の日記を紹介します。1905年の日記です。

カザルスが独奏するハイドンのチェロ協奏曲で、オーケストラの中でヴァイオリンを弾いていました。

彼のチェロの響きは、心を揺すぶる憂いを帯びている。彼の表現力には限りがない。あるときは外へ、ただし深みから湧き上がるように、またあるときは内へ、深みに沈むように。演奏するときは彼は目を閉じているが、口の方はしばしばこの平和を破って怒鳴り出す。

なぜ怒鳴り出したかというと、指揮者が全然振れなかったようで、怒り狂っていたらしいです。

カザルスがどうやって目をつむるようになったかは、先日の記事、カザルスの言葉をご覧ください。