フィッシャー=ディースカウが暗記しようとした唯一の専門書【フランツィスカ・マルティーンセン=ローマン『歌唱芸術のすべて』】

言説 音楽家

声楽に関する様々な事柄が書かれた書籍を紹介します。

引用してみると、けっこう固い言葉が多いですが、なるべくわかりやすくしていきます。
あのディースカウも絶賛したほどの本です。

声楽以外の方にも共通するような事柄をピックアップしました。

フランツィスカ・マルティーンセン=ローマン『歌唱芸術のすべて』

著者について

フランツィスカ・マルティーンセン=ローマン Franziska Martienssen-Lohmann(1887-1971)…ドイツのソプラノ歌手。

  • 生まれは、現ポーランドのブィドゴシュチュ。
  • 1907-10年、ライプツィヒ音楽院で学ぶ。
  • ベルリンでメスハールト Johan Messchaert(1857-1922) に師事。
  • 1914年からライプツィヒで教え始め、1927年からはミュンヘンの音楽アカデミー、1930-34年はベルリン、1945-49年はヴァイマール、1969年までデュッセルドルフのロベルト・シューマン音楽院、1949-69年はルツェルンの国際音楽祭の上級者講習会で教える。

彼女が習ったメスハールトは、木下保などの名だたる日本人歌手を教えたマルガレーテ・ネトケ=レーヴェ Margarete Julia Netke-Löwe (1884-1971)を教えた人でもあります。

ネトケ=レーヴェは東京音楽学校(今の藝大)でも教えました。
そういった意味で、日本との繋がりもあると言えるでしょう。

目次

訳者の方のサイトに、序文と目次が載っています。

ちなみに目次はこんな感じです。

    

「声楽学習の冒険(独学か先生につくか)」なんて項目から始まっているのも面白いです。
辞典のようになっています。

他にはどんなものがあるかというと、

  • 胸部共鳴
  • 高いC
  • 思い込みと虚栄
  • 発声練習
  • 声楽的才能
  • かすれ声

などなど。
声楽に関することから、精神的なことまで多岐にわたって書かれています。

フィッシャー=ディースカウの諸言

この本の前書きのようなところには、フィッシャー=ディースカウの言葉が書かれています。

1冊の〈専門書〉を読んで、その書物の与えてくれる刺激と、そこに発見したイメージをずっと保持しておくために、その諸節を暗記しようという気持ちにたえずなるということは、私は今まで本書以外にはあったためしがありません。

ディースカウがここまで言うとは…

書物から「発見したイメージ」を保持するという言葉も面白いです。
さすがディースカウ、ただ文字面を覚えるわけではありません。

項目例

この本の中から、いくつかの項目を紹介します。

暗譜(Auswendig)

〈暗譜(auswendig)〉という概念は,それが〈内面化(inwendig)〉ということを含んではじめて,真に価値あるものになる—もし芸術作品が単に多少の速さで機能する記憶力によって演奏されるものでなく、人間の内奥に根ざしているものであるならば。

暗譜=内面化
   ×記憶

人間の奥底に根ざす芸術作品であれば、ただ言葉や音符を覚えるのが暗譜ではなく、その言葉や音の意味するものが「内面化」されてこそ、暗譜と言えるということです。

「内面化(inwendig)」の意味は、心に入り込む、自分自身のものになる、といったことでしょうか。

詩でも同じです。

ある偉大な詩人はどこかで、人は毎日、一篇の詩か一篇の美しい表現の思想的文章を暗記すべきだ、と語っている。彼がこの言葉によって意味したのは、単なる記憶力の強化でないことは明白である。

百人一首を暗記したりしましたね。そのうちのいくつが内面まで入り込んでいることやら…

譜面はただ邪魔になるほど深く歌曲に沈潜してはじめて、歌手は声楽的造形の完全な自由を獲得できる。

これは経験的にもよくわかりますね。

本能と迷い(Instinkt und Irritierung)

色々なことを考えすぎて弾けなくなったり、歌えなくなって「もう駄目だ…」というような経験があるかと思います。
以下のように言語化されています。

歌唱に際して意識性があまりに強すぎたり、間違った方向を向くことはきわめて危険であり、それは致命的な犠牲を要求することになる。歌唱過程が意識的思考によって分断され、あらゆる自然の本能的な生命表現と生命の全一性から完全に遠ざかってしまったため、駄目になってしまった声が数多くある。そうなると〈もう歌えない〉ということになる。それは発声機能が傷ついたからではなく、あらゆる歌唱の発端がいわば神経中枢で硬化したためである。潜在意識から生まれた世界は、その正当な権能を失ってしまった。自然がうまく機能しないのである。

意識しすぎるのもよくないです。
「歌唱の発端が神経中枢で硬化」する。つまり自然にできなくなってしまうということですね。

真実の芸術はすべて、結局のところ、再び自然にならなければならない—はるかに深められた意味の自然に。歌唱において、自然にはその失われた権限が再び返還されることになる。

その「自然」というのが難しいところですが、以下の項に書いてあります。
本書はこのように、色々な項目へ飛べるようになっています。

自然、自然そのまま、自然さ、自然主義 (Natur, Naturhaftigkeit, Natürlichkeit, Naturalismus)

自然は、源泉と根源から出てくるものだと言います。

聴衆は、「芸術における自然とは何か?」と尋ねるかもしれない。聴衆は自分でその答えの半分を知っている。芸術的演奏において人間を感激させるものは、根源的なもの、直接的なもの、内発的なものであり—それが無意識的な優美さであれ、湧出する始原的な力であれ—まさに源泉と根源から出てくるものである、ということを知っている。源泉のあるところ、そこに自然がある。

  • 自然=源泉と根源から出てくるもの(根源的、直接的、内発的なもの)

そしてこれらが、人間を感激させると。

ファンタジーの創造力(Schöpferkraft der Phantasie)

歌手には、ファンタジーを創造する力がいるとも説きます。

歌手として、作曲家の—そしてまた詩人の—創造性を、直接、ちょうど今その作品が生まれたかのように、自分自身の中に目覚めさせる、かのファンタジーの力を自分のものとした人は、みずからも造形者へと成長する。

ですが、この能力は訓練されるべきだと言います。

しかし、ファンタジーもまた〈訓練〉されねばならない、ということを知っている人は少ない。ファンタジーは生まれつきの体験能力にからまりつつ成長して行くのである。

後天的にも獲得できるということです。
創造力などは、生まれつきや才能だと思ってしまいそうですが、彼女はそう主張しません。

また、「オペラや歌曲を説得力をもって表現するには、現実に体験することも必要」と言われることに対しても、否定します。

歌手に彼の演奏の表現と真実と活力を与えるのは、〈体験〉ではなく、生まれながらの感情の根源的な力である。芸術的ファンタジーの創造的な力によって、あらゆる深みと高み、あらゆる深淵と崇高をそなえた内的および外的世界は、純粋な、根源的に与えられた〈現実〉となる。

「死ぬ」という行為はもちろんのこと、オペラのような出来事を実際には体験できません。

ですが、実際に体験していなくても、「生まれながらの感情の根源的な力」で、表現できると言います。

まとめ

引用の通り、けっこう固い言葉で書いてあります(訳文の影響もあるでしょう)。
本自体も分厚いです。

ですが、ディースカウがこの本を読み込んだように、非常に重要なことが書いてありました。

目次で気になる項目があれば、お問合せいただければお答えします。