レチタティーヴォ専業の作曲家がいた!?【そのギャラは?】
18世紀半ば以降のナポリには、レチタティーヴォのみを作曲する人がいました。
その人は、本番ではレチタティーヴォ・セッコのチェンバロを弾いていたようです。
日本が世界に誇るオペラ研究家の山田高誌さんの研究から紹介します。
「パスティッチョ・オペラ」とは
パスティッチョ・オペラ pasticcio operaとは、1つのオペラを複数の作曲家によって分けて制作されたオペラのことです。
イタリア語の「pasticcio」には、「パイ」とか「いいかげんな仕事」とか「混乱」といった意味があります。
音楽の分野では、「複数の作曲家の作品の一部を抜き出して一つにまとめた曲」となります。
当時のナポリでは、オペラの制作は分業化されていました。
- 台本作家
- 楽曲の作曲家
- レチタティーヴォの作曲家
レチタティーヴォは違う人によって作曲されていたとはびっくりですね。
昨日の記事でも、 1760 年代半ば以降ナポリには、レチタティーヴォを作曲する専門の人がいたと書きました。
通奏低音の半音上行のみで構成されたわずか8小節の珍しいレチタティーヴォ【モーツァルト《コシ・ファン・トゥッテ》から】
レチタティーヴォ・セッコの通奏低音に目を向けたことはあるでしょうか?普段何気なく歌ったり、耳にしているレチタティーヴォ・セッコですが、通奏低音の進行に注目すると、色々と見えてきます。今回は、《コシ・ファン・トゥッテ》の中から、珍しいレチタティーヴォ・セッコを紹介します。
山田高誌さんの研究
ナポリ銀行の換金記録を手掛かりに、18世紀後半にナポリで活躍した作曲家、台本作家、器楽奏者の労働実態などを調査されています。
以下からダウンロードできます。
『パルナッソス山への階梯』 : 18世紀後半のナポリにおける,音楽家のキャリア構築の実態 : ナポリ銀行歴史文書館史料に基づく,作曲家,台本作家,器楽奏者の労働条件と,その経年的変化の解明
凄まじく緻密で詳細な研究です。
その中で、チェンバロ奏者兼レチタティーヴォ作曲家として活躍した人が紹介されています。
ジュゼッペ・ベネヴェント Giuseppe Benevento
- チェンバロ奏者兼レチタティーヴォ作曲家
- 35年にわたってナポリの諸劇場でレチタティーヴォの作曲を専門的に手掛けた
- パイジェッロ、チマローザピッチンニなど106作品のレチタティーヴォは確実に彼が書いた
1766年から1801年に活躍しました。
当時の人気作曲家のオペラも含め106作品のレチタティーヴォは確実に彼が書いたことがわかっているそうです。
推測では、300作品以上を書いたのではないかとされています。
ギャラ
- チェンバロ奏者として、毎作品10ドゥカートで出演
- レチタティーヴォの作曲で、別に10ドゥカート得ていた
1ドゥカート約40ユーロ(約5000円)とすると、10 ドゥカートで5万くらいでしょうか。
一つのオペラのレチタティーヴォを作って5万、弾いて5万くらいの感じかと思います。
パイジェッロが1785年シーズンにサン・カルロ劇場で発表した《オリンピアーデ》の報酬は600ドゥカード(30万くらい)なので、それに比べると安いです。
彼の活動は、音楽稽古をつけて、コレペティのような役割も果たしていたようです。
まとめ
モーツァルトはほぼ全て自分でレチタティーヴォを書いています。
パイジェッロやチマローザも、ウィーンやロシアに滞在した時にはレチタティーヴォも自分で作曲していたようです。
今のところイタリアの他の都市ではどうなっていたのか、調査はされていないと思いますが、同じような傾向はあったのではないかと思います。
オペラが量産されていた時期に特有の分業形態だったとも言えます。
高橋健介 KENSUKE TAKAHASHI Official Website
ピアニスト 高橋健介の公式ウェブサイトです。埼玉県出身。大宮光陵高校音楽科ピアノ専攻卒業。東京藝術大学楽理科を首席で卒業。同大学大学院音楽研究科音楽学専攻修了。在学中、同声会賞、アカンサス音楽賞、大学院アカンサス音楽賞を受賞。日本声楽家協会講師、二期会研修所ピアニスト。