作曲家と聴衆の媒体としての演奏家【藤村実穂子さんのインタビューより】

思考・日常(音楽) 練習 音楽家

藤村実穂子さん

藤村実穂子さんは、世界で活躍する数少ない日本人歌手です。

私も生で聴いたことがありますが、全ての神経を持っていかれました。
素晴らしい歌唱力と、精神性です。

以前もこちらのブログで、藤村実穂子さんの練習法を紹介しました。
歌う前に、最も多くの時間を費やすそうです。

この練習法を経て、あの素晴らしい演奏が生まれているのだと思うと納得します。

インタビュー記事

さて、今回はこちらのインタビュー記事からの引用です。

作曲家と聴衆の媒体としての演奏家

私は何百年も生き抜いてきた音楽の楽譜を開けるとき、今でもドキドキします。そして歌うとき、なるべくなら作曲家が一番後ろの列に座っていて、公演後「大丈夫でしたでしょうか?」と訊いてみて、何とかうなずいていただけたらいいなと思って歌っています。

確かにクラシック音楽の魅力の一つは「何百年も生き抜いてきた音楽」ということです。

名曲たちは、幾度もの戦争を経て、それでも楽譜が残り、演奏が受け継がれ、今に至ります。

そのような音楽を奏でる演奏家の役割とは何か?

演奏家は、作曲家が残した音楽(楽譜)から作曲家のイメージを読み込み、聴衆へと伝える媒介者(媒体)です。

藤村実穂子さんのインタビューを読んで、改めてそのことを実感しました。

演奏家それぞれの解釈はあるが…

もちろん、ただ機械のように媒体となるのではなく、演奏家自身も1人の人間であり、音楽家です。

そこには様々な解釈が生まれ、だからこそ多くの演奏家が存在するわけです。

ですが、今日まで残るような名曲で、作曲家が指示したことと全く違うことをして良い演奏になることは、それほど多くはありません。

上の例を引き合いに出すと、作曲家に「大丈夫でしたでしょうか?」と訊いて、「僕の考えと違うけれど、面白かった」と作曲家に言わせることができたら、それは優れた演奏です。

ですが、そんなことが常にできるのはごくわずかの天才か、偶然の現象でしょう。

インターネットの普及と音楽

ネットが普及した現代における音楽の向き合い方にも懸念を抱いています。

世界はコロナによって日常がなくなった。時間ができた音楽家は、理想の音楽とは何かに向き合えばよいのではないかと思います。ネットでダウンロードして器用にコピーし、ちょっと練習して舞台に出るのは、果たして「音楽」なのか。楽譜をしっかり読んで自分が思う音楽を演奏し、ヘッドホンとライブでの違いが感じられる演奏をすべきではないかと。音楽公演を「必要至急」に近づけ、コロナで受けた不名誉な芸術の位置を払拭してはどうか、と自戒を込めて思うのです。何故なら音楽には人を癒す力があるから。

確かに何でもネットで手に入って便利な時代ですが、それによって失われてしまっているものがあるかもしれません。

まとめ

藤村実穂子さんの「私は何百年も生き抜いてきた音楽の楽譜を開けるとき、今でもドキドキします」という言葉にも、ドキッとしました。

果たして自分は、毎回ドキドキできているか?

そんなことを問いかけながら音楽に向き合っていきたいです。