カザルスの言葉②【テクニックは手段】(ジェラルド・ムーアの警鐘)
以前もカザルスの言葉を紹介しました。
今回は「テクニック」に対する考え方について、カザルスが述べたことを紹介します。
また、名伴奏者のジェラルド・ムーアが、彼に対して述べた言葉も示唆に富んでいます。
テクニックに対する基本的な考え方
カザルスの言葉です。
私はつねにテクニックを手段だと見なしてきた。テクニックそのものを終極目的だとは思っていない。もちろん、テクニックはマスターしなくてはならない。だが同時にその奴隷になってはいけない。テクニックの本当の目的は、音楽の内に秘められた意味、メッセージを伝えることだ。(『鳥の歌』172頁。)
テクニックは手段だと考えました。
- テクニック=手段
しかし、テクニックはマスターしなくてはならないものとも言います。
テクニックは、
- 終極目的ではない
- 奴隷になってはいけない
という点が重要です。
大事なのはこちらですね↓
本当の目的=音楽の内に秘められた意味、メッセージを伝えること
まずはじめに音楽
カザルスにとって、出発地点はテクニックではありません。
最高のテクニックとは、まったくそれと気づかれないようなものだ。(『鳥の歌』172頁。)
確かに演奏を聴いて「感動」した時に、テクニックがすごい!と最初に思うことは滅多にありません。
結果的に、テクニックの力がそれを補強していたんだ!と思うことはあります。
たとえテクニックで人を感動させたとしても、最初は、それがテクニックによってなされているものだとは気づかないのです。
*超絶技巧のように、元からそれを目的としているものは除きます。
出発地点は、あくまで音楽です。
カザルスに対するジェラルド・ムーアの言葉
カザルスとムーアの稽古
リートの伴奏者として名高いムーアですが、とくに若い頃は器楽奏者との共演も多かった人です。
器楽奏者との共演に関しては、歌曲好き Liedfan(@I2hIfuGfCegC1fx)さんのブログ「Taubenpost~歌曲雑感」の記事「ジェラルド・ムーア(Gerald Moore)生誕120年」をご覧ください。
ムーアに関しては、内藤晃さんも素晴らしくまとめていらっしゃいます。
どちらも1時間くらいかけて読んで(聴いて)いただきたいです。
ピアニスト解剖(2)ジェラルド・ムーア|内藤 晃|note
ジェラルド・ムーア(1899-1987)。フィッシャー=ディースカウやシュヴァルツコップなど名だたる歌手たちから絶大な信頼を勝ち得てきた、歌曲伴奏のスペシャリスト。彼のソリストの色にカメレオンのごとく寄り添うピアノはあまりにも自然で絶妙で、わたしも尊敬してやまない。 彼は、その仕事に職人的な誇りをもった「闘士」だった。フィッシャー=ディースカウはこう言っている。 ジェラルド・ムーアは(…)伴奏者の人柄は控え目すぎるほど控え目で、できるだけ目立たないでいる「ピアノの紳士」だというイメージを、そしてまた、よく言われる、伴奏者のピアノの腕は落ちるという説も一掃した。 (
そんなムーアがカザルスと初めて練習した時のこと。
共演者としてうまく溶け合うかどうかを調べる実験台として用いたのが、ベートーヴェン《チェロ・ソナタ第5番》作品102-2の第2楽章だったそうです。
「ただ音符を弾くだけなら簡単な曲」(ムーア曰く)をカザルスは選びました。
20数小節演奏して、カザルスは「私はとても満足です」と言ったそうです。
カザルスは、ドラマティックな構成の第1楽章でもなく、複雑なフーガでもないこの部分を選びました。
カザルスがアンサンブルに何を求めていたかが示唆されるエピソードではないでしょうか。
ムーアの警鐘
ムーアは、一般的な演奏家について警鐘を鳴らしています。
演奏家は、自分のことしか考えていないと…笑
演奏家はいつも作曲者を第一に考えているかのように装い(中略)、自分自身のことを、99パーセント考えている。技術の支配や、腕の運動を常にらくにしたり、音符を正確に弾こうと奮闘することで、彼は全ての能力を使い果たし、肝心の音楽自体がお留守になってしまうのである。(『お耳ざわりですか』 204頁。)
耳に痛い話ですが、非常によくわかります。
その一方で、カザルスは違ったようです。
続けてこのように言います。
カザルスにはこのような問題はなかった。彼は、彼の楽器の完全な支配者となっていた。そして、彼はこの点から出発しているのである。多くの音楽家がやめてしまうところから、彼は始める。これによって彼は、作曲者の分身となり、作曲家の心に没入できる。
カザルスがすでに一定以上のテクニックを持っていたことは前提にありますが、カザルス自身が楽器と完全に一体化していたということでしょう。
楽譜の功罪
楽譜は、後世の人や遠方の人が再現できる仕組みを作ったという点で、画期的なものです。
楽譜があるおかげで、我々は過去の偉大な作品に触れることができます。
しかし、楽譜が全てではないのも事実です。
音楽は人生そのものもように、絶え間ない動き、つぎからつぎへと湧き出る自発性であって、あらゆる束縛から自由なのに、書かれた楽譜というのは拘禁衣のようだ。(『鳥の歌』176頁。)
カザルスもこのように、「楽譜」の限界について述べています。
まとめ
最後にカザルスの言葉を引用します。
人は私を偉大なチェリストと呼ぶ。私はチェリストではない。音楽家だ。そっちのほうがずっと重要だ。(『鳥の歌』122 頁。 )
ここでまとめたことの全ては、この言葉に集約されていると言えるかもしれません。
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高橋健介 KENSUKE TAKAHASHI Official Website
ピアニスト 高橋健介の公式ウェブサイトです。埼玉県出身。大宮光陵高校音楽科ピアノ専攻卒業。東京藝術大学楽理科を首席で卒業。同大学大学院音楽研究科音楽学専攻修了。在学中、同声会賞、アカンサス音楽賞、大学院アカンサス音楽賞を受賞。日本声楽家協会講師、二期会研修所ピアニスト。