自分という原液を薄めない【アンサンブルにおける鉄則】

アンサンブル・伴奏 思考・日常(音楽)

アンサンブルにおける鉄則

昔、カルピスが好きでした。
原液が家にあって、それを好きな濃さに水で薄めて飲んでいました。

その時の気分に合わせて、濃さを調整できるのが好きだったのです。

アンサンブルについて考えてみます。

カルピスの原液が自分の演奏だとすると、相手が加わることによって、原液を水で薄めて自分を調整するのは基本的には良いことではありません。

自分という原液が、相手の原液とぶつかり合って、さらに濃いものになること。
または、全く違った成分の原液が混ざり合って、全く新しい原液を生み出すこと。

これらがアンサンブルの理想と言えるでしょう。

1+1=2以上

言い換えれば、1+1が2以上にならなければ意味がないということです。

これは当たり前のように感じるかもしれませんが、知らないうちに2以下になってしまうことがあるのです。

お互いに「1」の能力を持っていても、無意識のうちに、どこかで何らかの調整をしてしまい、自分の中の「何か」が失われてしまうのですね。

「忖度」してしまうということかもしれません。
日本人の特徴とも言えるかもしれないです。

自分が感じたものをありのままに表現してみる時間を作る

演奏家なら、「自分は家で弾いている時が1番上手い」と感じたことは1度くらいあるでしょう。

もちろん、舞台で(=人前で)最高のパフォーマンスを発揮することが最終的な目標です。

ですが、もしかしたら数々の優れた録音を残した巨匠たちも、録音に残っていない家で練習している時の演奏が1番素敵だったかもしれないのです。

まずは、「自分が感じたものをありのままに表現してみる時間」を作ることが大切です。

それが人とぶつかった時に、化学反応を起こすかもしれません。
「自分」というものがなければ、化学反応を起こす素材になり得ません。

「作曲家と聴衆の媒体」としての演奏家と「自分」という演奏家

前回のこちらの記事と矛盾しているように思われるかもしれません。

確かに、「作曲家と聴衆の媒体として」の演奏家という視点も必要です。

でもそれは「自分」という演奏家としての軸があっての上でのことなのです。

まとめ

このようなことを考えなくても、真っ向からぶつかり合えるのが理想です。

ですが、もしかしたらどこかで自分を引いてしまっているかもしれない?と自分に疑問を投げかけてみるのも大切です。

意外と忖度してしまっているかもしれないからです。

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